2009年4月6日月曜日

日 本における大正文学の担い手となった白樺派の同人雑誌『白樺』は、1913 (大正2)年発行の12冊の表紙絵に、ブレイクの詩から着想を得たバーナード・リーチの手によるデザイン画を一年間用いている。白樺の森を背景に、一本の 大きな白樺の木の下に座する虎。たたずむ裸の少女。そして、絵の上部にはブレイクの詩「虎」(“The Tyger”) の最初の二行が “TIGER・TIGER・BURNING BRIGHT / IN THE FORESTS OF THE NIGHT” と白抜きで配されている。
  大正期、白樺派の人たちのブレイク受容の活動により、英国の詩人=画家=銅版画師ウィリアム・ブレイク(1758〜1827)は、多くの日本人に着実に受 け入れられていった。特に、雑誌『白樺』でのブレイク紹介は、主に『白樺』刊行時からの同人のひとりである柳宗悦を中心として推進された。当時の日本にお いて実に驚くべき水準の高さを示した柳のブレイク研究と彼によりその後もねばり強く続けられたブレイク移入のための積極的活動は、ブレイク受容の大きな流 れを作り出したという点で、日本におけるブレイク受容史のなかで最初の最も高く評価すべき意義を持つものであった。
<白樺派によるブレイク受容>
  1914(大正3)年の『白樺』4月号の表紙を飾ったのは、ブレイクの後期預言書のひとつ『ジェルサレムーー巨人アルビオンの流 出』(Jerusalem: The Emanation of The Giant Albion) のプレート94である。この『白樺』には日本における最初の本格的なブレイク論考、すなわち、柳宗悦の「ヰリアム・ブレーク」が巻頭137ページにわたっ て掲載された。さらに、同誌上には、日本の白樺派と英国のブレイクとを結びつけた重要な立役者、バーナード・リーチの英文によるブレク論 “Notes on William Blake” も寄稿された。
  『白樺』同号には、表紙、裏紙をあわせて合計18枚のブレイクの作品の複製が、また、口絵にはブレイクのライフマスクの写真が掲載された。これ以前の日本 の雑誌や図書のいずれにも、ブレイクの絵画、版画作品の複製が掲載されたことはなかった。したがって、1914年というこの年に、これほど大量の図版がし かも一冊の雑誌に掲載されたことは、明治期までの日本のブレイク受容の遅々たる歩みのなかでは予想すら出来なかった驚くべき出来事であった。
  ブレイクの詩のなかで、生前、通常の活版印刷により実際に出版された詩集は『詩的素描 』(Poetical Sketches, 1783) 一冊だけであった。同時代の人たちからは銅版画師=職人としてしか認識されていなかったブレイクの詩人としての名声が、奇跡的に後世まで伝えられることに なったのは、ブレイクが独自に発明した彩色版画 (Illuminated Printing) という特殊な技法を用いることで自ら出版・頒布していた、視覚テクストと言語テクストとが同列に扱われる、彩飾本と呼ばれるテクストが現存しているためで ある。そこで、今日、画家としてのブレイクのみならず、詩人としてのブレイクを考察する際には、この彩飾本を視る=読むことの重要性がますます強調される ようになってきている。だからこそ、大正のはじまりに、ブレイクの視覚芸術が言語芸術とともに紹介されたことは、わが国のブレイク受容にとっては、実に言 祝ぐべき出来事であった。そして、この出来事は、美術雑誌としての特性を兼ね備えていた『白樺』という雑誌を媒体として初めて可能となったという事実もま た認識しておくべきだろう。
  柳とリーチのブレイク論と多くの図版の掲載により、『白樺』1914年4月号は、事実上「ブレイク特集号」となったが、翌月の『白樺』5月号にも、ブレイ ク関係の論文、すなわち、柳によるブレイクとホイットマンを論じた「肯定の二詩人」(未定稿)が引き続き掲載された。また『白樺』7月号には、柳によるブ レイクの散文(書き込み、「公開状」、『目録解説』、最後の審判のヴィジョン)の一部の翻訳と解説が「ブレークの言葉」という題下で発表され、同年12 月、柳によるブレイク研究は、とうとう、本邦初のブレイク研究書『 ヰリアム・ブレーク』(洛陽堂、1914年12月23日発行)に結実する。
  翌1915(大正4)年の2月20日から28日まで、白樺主催によるブレイク展覧会を兼ねた第七回美術展覧会が、かつて有楽町にあった日比谷美術館で開催 された。この展覧会では、ミケランジェロ、レンブラント、ゴヤの素描複製あわせて100枚とブレイクの複製画が着色版と白黒とを合わせて60枚展示され た。複製とはいえ、ブレイクの絵や版画が展覧会で展示されたのは、日本でこれが初めてのことであった。そもそも大正の当時は、西洋の絵の展覧会といえば複 製展覧会を意味する時代であった。
  この展覧会は、当時「白樺主催のブレーク展覧会」として、1914年の11月下旬ないしは12月上旬の開催が計画されており、すでに1914年の『白樺』 11月号で、その予告がなされていた。このブレーク展覧会予告に呼応するかのように、当時、東京帝国大学に在学中の芥川龍之介が、友人に宛てた手紙に「白 樺ではブレーク展覧会をやるさうです二本ではブレークがはやってゐるんです」と書いている(1914年11月14日付、原善一郎宛書簡)。この美術展が開 催された1915(大正4)年は、ちょうど、白樺派の全盛期が始まろうとしていた時期にあたる。(1) 白樺派の活動が、さかんに社会的注目を集め始めていた時期である。ブレイク学者の山宮允はのちに当時を振り返り「当時白樺社主催のブレイクの版画の展覧会 が日比谷にあり、芥川龍之介や成瀬正一等の文学的青年学生が見に行つて驚異感激の目を瞠つたこともある」と書き残している(「初期ブレイク学者のことな ど」(2))。また、この展覧会では、5、6人の人がブレイクの複製を買い求めていたこともつけ加えれておこう(「編集室にて」『白樺』1919年9月 号)。日本発のブレイク展覧会でブレイクの絵・版画に感激し、その複製を手に入れようとした人たちがいたという事実も興味深いものがある。
 その後も『白樺』はブレイクの図版を定期的に掲載し続けている。
  1915年『白樺』3月号の口絵には、『ユリゼン [第一] の書』 (The [First] Book of Urizen) の彩色版画のプレートの一枚がカラーで掲載されている。カラーによるブレイクの複製画の掲載は、これが日本で初めてのものである。1917(大正6)年 『白樺』4月号の表紙に、ふたたびブレイクの預言書のプレートが登場する。「アメリカひとつの預言」(America a Prophecy) のプレート15である。扉絵に用いられている『ヴァージルの牧歌』の木版画 (Illustrations to the Pastorals of Virgil) やカラー複製による「生命の川」(The River of Life) など合計6枚の図版が掲載されている(うち2枚がカラー).
  1919(大正8)年11月、「白樺美術館」設立のため、東京と京都で「ブレーク展覧会」が開催された。この展覧会では、彩色版画20枚あまりをふくめ た、ブレイクの複製74点が展示され、500部限定で『解説目録』が販売された。この『解説目録』でのすべての展示作品についての解説は、柳の手によるも のである。
 この年の『白樺』11・12月合本号の扉絵には『ヴァージルの牧歌』の木版画が、そして巻頭には『無垢と経験の歌』の扉絵が使われ、その他4枚のモノクロ複製画が掲載されている。
  『白樺』は 1910(明治43)年4月に創刊された。この雑誌は、当時学習院の生徒たちが発行していたみっつの回覧雑誌を合併させたものであった。その後 1919(大正8)年4月には十周年記念号を出したこの雑誌は、1923(大正12)年まで、約13年間続いたが、同年9月1日の関東大震災のため、9月 号は公刊されることはなかった。
  「十人十色」をその大きな特徴とする白樺派の活動は多岐にわたっていた。同人たちの母体である雑誌『白樺』には小説、戯曲、短歌、詩、翻訳、絵画、研究論 文など、ジャンルの枠を超えた様々な活動の成果が発表された。また、西洋美術の複製図版が豊富に掲載され、西洋美術鑑賞と文学を同列に並べた『白樺』は、 すでに指摘したように、当時の美術雑誌の役割も果たしていた。美術に深い関心を寄せていた『白樺』同人たちは、白樺主催の展覧会(同人の画家たちの展覧会 や西洋絵画の複製展覧会)を積極的に企画、開催し、こうした、美術の分野においては、ロダンや後期印象派の紹介に大きな貢献を果たした。
  白樺派による日本のブレイク受容は、白樺派によってすでに作り上げられていたこうした文化的基盤があったからこそ可能となった事実は認識しておかねばなる まい。白樺派を代表する作家のひとり、武者小路実篤は、のちに白樺派の運動を回想した文章のなかで、白樺派の特徴が「天才賛美」にあったことを指摘し、こ う続けている。
も う一つの特徴は、天才賛美であった。白樺の仲間の人は西洋の画が好きだった。セザンヌやゴオホ、ゴーガン、ロダンなぞ白樺の人達に随分影響を与えた。又、 ホイットマン、ブレークなぞも白樺の人達に随分影響した。それ等の人は実によく自己を生かした人として彼らに愛された。食うに困らなかった彼らは、純粋に 何にも恐れずに愛し得るものを愛した。
(『「白樺」の運動』)
 この文章からは、白樺派によるブレイク受容が、後期印象派や詩人ホイットマンの受容の延長線上にあったことが確認されよう。武者小路が回想するように、ブレイクは「実によく自己を生かした人」として白樺派に愛されたのである。
  本多秋後は『「白樺」派の文学』のなかで、明治以後の日本では戦争・大事変のあとには同人雑誌が続出する顕著な傾向がみられることを指摘したうえで、『白 樺』は日露戦争(1904ー1905年)の戦後同人誌のひとつではあるが、より正確には、幸徳事件の年から関東大震災まで存続した雑誌と規定できると述べ ている。本多は、幸徳事件を意識して書かれた具体的作品として武者小路実篤の『桃色の室』(『白樺』1911[明治44] 年2月号)を指摘しているが、『白樺』刊行当初、『白樺』同人たちのおおかたがもっぱら関心を寄せていたのは『ロダン号』(『白樺』1910[明治43] 年11月号)の編集や、セザンヌ、ゴッホの紹介であった。
  1914(大正13)6月、サラエボでの事件をきっかけに、第一次世界大戦が勃発する。8月23日には日本もドイツに宣戦布告をしている。この戦争に関し ても、この年の『白樺』11月号の「編集室にて」で同人のひとりが他の同人たちの近況報告の雑文とともに「何しろ戦争はよくない」とひとことコメントして いるにすぎない。
  しかし、社会・政治思想は、社会・政治運動に直接関わった者たちの言説によりのみ支配され、独占され、決定づけられるものではない。たとえば、哲学者の鶴 見俊輔は、白樺派の文学に、その後の日本が一気になだれ込んでいった超国家主義の動きとは逆のベクトルを見いだし、こう評価している。
 
志 賀・里見などのように、日本人のこまやかな情感を筆にしたと言われる小説家が、同時につねに人間として人間に語りかけるという流儀を、国家主義と日本への 回帰の時代にも手ばなさなかったところに、私は白樺派の日本文学史におけるめずらしい役割を見る。この点で白樺派は横光・川端の新感覚派や伊藤整らの新心 理主義文学とちがう。
(『柳宗悦』)